山元の徒然日和

考えたこととか書評とか

道徳哲学について考える⓪義務論vs結果論

 哲学は素人であるが、自分が考えてきたことをまとめるメモ代わりに道徳哲学について連続で記事を書いていく予定である(他の哲学領域ではなく道徳哲学について書くのは既存の道徳哲学上の議論に幾つか不満があるから)。出来ればご意見待ってます。

今回は前準備的な内容として義務論と結果論の区別について考察する。

 義務論も結果論も行為の道徳性の評価に関するものであり結果論であっても義務的な議論を行うし、行為の道徳的判断を偶発的な要素の強い結果を基準として行うことは出来ないので*1、結果論も結果によって判断すると言うよりは、行為において思慮すべき内容の違いということになる。義務論は行為の道徳的判断をその行為の類型に従って行うものだがそもそも「殺人」や「傷害」などは正に結果による基準を含んで居るので、義務論であっても結果を考慮しないわけではない。

 2つの実質的な違いは、意図と予見可能性(法学的には故意と(認識のある)過失)の違いや間接的な結果に関する直接的な結果を優位性などに違いが見られる*2

義務論においては意図する結果が第一義的に判断の基準になり予見される間接的な結果は二次的な判断材料にすぎない*3。しかしながら結果論に於いては意図するかどうか直接的か間接的かを問わず予見される結果全てが判断材料となる。

 義務論においては意図して行われた殺人はそれによって多くの命が救われることが予見されていたとしても許されることではない。結果論によれば多くの命が救われることが予見されていたにも関わらずそれを見殺しにすることは非難されるべきことであり多くの命が救われることを予見しているなら、どの様な意図のもとであれその殺人は推奨される。

 

次回は功利主義について考えていく。

*1:メタ倫理的には「義務は可能を含意する」という原則があるがそれと予見可能性からくる議論

*2:行為と結果の直接-間接の判断は科学哲学なども含めて大いに議論に成っているところである、時空の近接性が問題なのか、確率の問題か、何らかの結合性の問題か、いくつの基本的因果関係に分解できるか・・・様々な観点が存在する

*3:判断の順番としては、意図する直接的結果≧意図する間接的結果>>...>>越えられない壁>>...>>予見される直接的結果≧予見される間接的結果

科学哲学関係の書評と考察

 以下三冊についての書評と考察を書く。

吉田賢治 監修「現代哲学の真理論 ポスト形而上学時代の真理問題」世界思想社 2009(以下、吉田「真理論」)

須藤靖 伊勢田哲治「科学を語るとはどういうことか 科学者、哲学者にモノ申す」河出ブックス 2013(以下、「須藤伊勢田」)

戸田山和久科学的実在論を擁護する」名古屋大学出版会 2015(以下、戸田山「実在論」)

この三冊は興味の赴くまま読んだものであるが、結果的には関連付けて読むことでより多くの知見を得ることが出来た。

 

①吉田「真理論」の感想~現代の知識論~

 書評:哲学史や哲学思想の研究者達が真理論に関わる重要な哲学者について解説した記事が年代や思想の系譜に即してオムニバス形式に並ぶ。特に結論を付けるタイプの本ではないが副題にある通り終盤の実践的な真理論(というより真理論に代わる理論)が特に重要なテーマと成っている。

 分析哲学的視点に立つと前半、特にジェイムズまでの解説は時代遅れであったり詩的に過ぎ議論が不十分なところも多く、背景知識を得るための読み物としての側面が強い。しかしデューイ以降の解説は現代でも十分通用する考えや疑問を提示してくれる。知識科学に興味のある人は一度目を通しておいても損はない。

考察:特にデューイの項で与えられた「保証付き言明可能性」もう少し噛み砕いて言えば「根拠が与えられた行動の指針を与える言明」という形での知識の定式化は特に重要である。知識は哲学において伝統的には「根拠が与えられた真なる信念」として定式化されてきた、現代的な観点から見るとこれは奇妙に見える。我々は真と言えるほどの十分な根拠が無くとも知識を持ちうるし、知識は信念と呼べるほど強固なものだけではない。むしろ様々な情報や証拠により日々更新改定されることこそ知識の本質と言えるだろう。そういう意味で「保証付き言明可能性」は一応妥当な知識の定式化を与えてくれる(これについてはまとめでもう一度考察する)。

 

②「須藤伊勢田」の感想~物理学者と科学哲学者の対話は何故咬み合わないのか~

 書評:物理学者の須藤が科学哲学に対する疑問や不満を専門家の伊勢田に問いただしそれに伊勢田が応えることで科学哲学を紹介しつつその問題点が浮かび上がる。

 須藤の発言は極端で偏った観点から発せられるものの鋭く科学哲学の問題を浮かび上がらせる。それに対し伊勢田は非常に丁寧で根気強い応える。二人の議論は中々折り合わない。しかし結論に至ることはないものの互いの見識を深めつつ議論も精密化していく。フラストレーションも溜まるがそれも含めて多くの示唆を与えてくれる。科学哲学に興味のある人は一度は目を通す事をオススメする。

考察:何故二人の議論は咬み合わなかったのだろうか、それぞれの対談者毎に問題を見ていこう。

須藤の問題:①実践的な問題意識に固執していた。現場の科学者が実践的な問題意識を持つのは自然なことであるが、科学哲学により科学の実践に即し、また科学の実践に貢献する事を期待していた。それは幾らかは妥当なものだが全面的な要求としては強すぎるものである。

②科学観ひいては学問に対する見解が偏っていた。須藤の発言に即せばその学問観は学問とは経験科学のことであり、経験科学とは物理学の方法が通用するものの事としてるように見える。その証拠に須藤は議論の形式的正しさそのものを(仮定や結論の正しさと)独立して学術的成果の(正当性の)判断基準として用いることを認めてないように思われ、もっぱら経験的方法によって検証されることを要求する。しかし例えば数学の正しさは(形式主義に立つならば)まさしく「議論の形式的正しさ」によってしか担保されない。それならば須藤の観点では(特に明確な応用を持たないような)数学の成果は学術的価値を持たなくなってしまわないか?勿論数学と分析哲学や心理学等の分野の厳密さには隔たりがあり、例えば分析哲学の厳密さは(扱う対象の曖昧さを加味したとしても)低すぎるという批判であれば真っ当だろう。

伊勢田①歴史的な源流である現在は余り採用されないような粗い議論からスタートし洗練された議論に中々到達しない。哲学の教科書や講義であれば歴史的背景から始まることは自然であるが、他分野との対話に於いては出来る限り先端の洗練された議論からスタートして必要に即して歴史を振り返る方式が良いだろう。

②上記の問題にも関わるが、科学哲学が成功し確立された科学分野の後追いの説明の部分のみ解説され、多少なりとも実践的な意味での新たな知見を生み出す様子が十分伝えられていない。これに関しては歴史的な背景を説明するよりは、生物学や心理学などの境界領域における事例を中心に現代における議論から説明するのが良かったのではないか(実際須藤の批判の少なくない部分は現代の科学哲学の議論に既に吸収されている部分である)

 科学哲学の威力は科学の境界領域でこそ発揮される。そこでの事例を中心に議論が行われればより実りの多い対談に成ったのではないか。

③戸田山「実在論」の感想~科学の科学についての分析~

 書評:科学的実在論の歴史的背景から始まり現代に至るまでの議論を精査し振り返りつつ科学における実在と科学という営みを科学哲学の視点から浮かび上がらせる。更に最近の議論を元に現代でも批判に耐えうる科学的実在論及び科学観が提案され、それに基づき「科学の科学」が標榜される。

科学哲学に興味をもつものだけでなく科学に携わる全ての人に読んでもらいたい一冊。

解説考察:この本では最終解答として「構成的実在論」という実在論(と言うより実在論を提供しうる科学に関するモデル)が提案される。これは科学理論とはある視点と目的からある精度を持って実在に類似した(近似ではない)モデルであり、科学の営みは新たにモデルを構築したり改善したりする試みだとするものである。更にモデルの適応は実在の解釈を制限し変容させ、実在はモデルを制限し修正すると言う強い意味でのメタファーとして理解される。このとき実在とモデルの関係は相互作用的であり、モデルの実在との類似は観察や実験と言った現象レベルだけでなく、構造や実体に関しても(そのモデルごとの視点や目的、精度毎に)一部モデルと実在の類似を推測することが出来る。

 このように科学をモデルの構築と適応として理解したとき、「構成的実在論」自体、科学に対する(「構成的実在論」が規定する意味での)モデルを与えるものとみなすことが出来る。著者は科学哲学の目的の一つを「科学の科学」の種を蒔くことだといい、「構成的実在論」を「科学の科学」の試金石とみなしている。

「構成的実在論」を「科学の科学」とみなした時その評価はどうなるだろうか。大枠としては成功してるみなすことが出来るだろう。しかし「科学」に対するモデルとみなした時、本書の「構成的実在論」には大きな欠陥が存在する。それはモデル間の関係が十分に描かれてないことである。科学理論(モデル)が適応されるときそれが単独で使われることは殆ど無く、モデルの解釈、適応、構築、全ての場面で他のモデルが利用される。特に天文学や生物学のモデルはそれ自身に他のモデルの要素を多分に含むが、それは上位理論や下位理論として含むわけでなく包含されることもない。それらの要素は引用のように理解されるべき要素である。特に天文学や生物学の場合、その正当化においてモデル間の関係は本質的な役割をしている。このようにモデル間の関係性は科学モデルにおいて本質的な性質でありモデルを元に実在論を展開するような限られた目的であっても決して無視できるものではない。

④まとめ~知識論と科学の科学ヘ向けての科学哲学の今後~

  戸田山「実在論」では「根拠が与えられた真なる信念」としての古典的知識の定義に科学的知識の観点から批判が加えられている。そこでは知識はデータベース(書内ではハイブリットシステムと呼んでいる)として理解される。それは集団的(社会的)で外在的なものであり得る。そしてデータとしての知識は言語的な言明に限らない。

 以上を吉田「真理論」におけるデューイの知識論と組み合わせると知識とは

 「(場合によっては集団的外在的に)根拠が与えられ、ある目的に適った、ある視点から描かれた利用可能な(外在的内在的両方の場合を含む)データベース」

と言うことになるだろう(目的は必ずしも実践的なものである必要はないし、何らかの実在に類似したものだとは限らない)。

 このような理解の基では科学理論は知識の特殊な一形態と見ることが出来るだろう。

 モデル及びモデルのネットワークによる科学の描像は正確には科学理論、更に広く科学知識のモデルを与える。これは脱人間的で静的かつ内在的な「科学の科学」ということが出来るだろう。動的な科学の記述にはどういったものが必要だろうか。

 一つ目は個人や研究室単位の特性を明らかにする行動学的ないし心理的な「科学者」のモデルを与えることである(ミクロで内部的な科学社会論)。

二つ目は科学全体や一つの分野全体に渡る科学の活動を描く科学組織論や科学運営論(マクロで内部的な科学社会論)。

三つ目は科学と人類社会全体との関係を描く科学(知識)社会学(マクロで外部的な科学社会論)。

これらがどのように科学知識の構築改善に貢献ないし妨害しているかを明らかにしていくのが今後の科学哲学の重要なテーマと成って行くだろう。